「表現の自由」と「表現者の責任」

『極右政党がウェブに風刺画 スウェーデン、外相が懸念』(共同通信)より、一部引用。

漫画を掲載したのは「スウェーデン民主党」。移民政策に反対しているが弱小政党で国会に議席は持っていない。外相は「表現の自由には、それなりの責任が伴う。同党も分かっているはず」と自重を促している。


そして、『アナン事務総長、新聞転載を非難 風刺画問題』(産経新聞)からも、一部引用。

事務総長は「言論の自由には責任と分別が伴う」といい、風刺漫画の転載を「火に油を注ぐ行為」と懸念を表明。


上の2つの記事でいう「責任」とは、法的なものではなく、社会的なものをいっているのでしょうね。
さらに、『<風刺画>作者が反省の弁 キリスト風刺は掲載拒否していた』(毎日新聞)からは、全文引用させてもらいます。

【ベルリン斎藤義彦】イスラム教の預言者ムハンマドの風刺漫画問題で、騒ぎの発端になった絵をデンマーク紙に提供した漫画家がドイツ紙と会見し、「浅はかだった」と反省の弁を述べた。また今回、風刺漫画を載せた新聞が3年前、キリストを風刺する漫画の掲載を拒否したことを別の漫画家が暴露し、同紙の「二重基準」への批判が高まっている。
 問題の漫画をデンマーク紙ユランズ・ポステンに提供した12人のうち1人が、独紙フランクフルター・アルゲマイネと会見。内容が9日付の同紙文化欄に掲載された。
 漫画家は2人1組で仕事をしてきた。現在は自宅に1日2回、警察が訪れて警備しており、漫画について言及しないよう助言を受けている。
 漫画家は「だれも傷つける意図はなかった」と強調。「小さな絵から異常な状況に発展した。すべてが脱線し、ばかげた状況になった。宗教でなく政治が問題になり始めた」などと語った。暴動を引き起こすとは「全く予想していなかった」といい、「私たちデンマーク人は広い世界のことやイスラム教のことを少ししか知らず浅はかだ」と反省の弁を述べた。
 一方、風刺漫画を書いた12人とは別の漫画家がドイツ紙などに対し、03年4月にキリストを風刺する漫画を「ユランズ・ポステン」紙に提供しようとしたところ「望ましくない」と掲載を拒否されたことを暴露した。 絵はキリストが復活する際、床や壁の穴から飛び出すものなど数点。漫画家は同紙が「(教会など社会の)指導者層を攻撃することになる」ため掲載を拒否したと主張しイスラム教徒よりキリスト教徒の読者に高い価値を置いている」と同紙の二枚舌ぶりを批判している。これに対し同紙は「絵の質が良くなかったから」と弁解している。


今回謝罪した風刺画家が、本当に「だれも傷つける意図はなかった」かどうかは分かりませんが、暴動を引き起こすとは「全く予想していなかった」というのは本当だろうなぁと思います。
逆に、3年前の掲載拒否を今頃蒸し返した漫画家の主張は、新たな暴動のひとつやふたつぐらい引き起こしたいんじゃないかと邪推したくなるような言動だと、思ったりします。(笑)

そして、スウェーデンの外相や、国連のアナン事務総長が指摘するように、民主主義世界では「表現の自由」が保障される一方で、ある種の「責任」を負うということは考えられることだと思います。
その「責任」について、法律で規定されている場合はその法律の範囲内での「責任」を負うでしょうし、その上に何らかの社会的な「責任」も負うことも考えられるでしょう。
そして、法律に規定がない場合には、社会的な「責任」が問題となるのでしょう。
しかし、この「責任」を言い出すと、際限がなくなってしまいそうで、私はなかなか言い出せないでいましたが、偉いお2人がさらっと述べて下さっているので、それに乗っかって、少しだけ思うところを書いてみます。(2人とも風刺画家の責任に直接言及しているわけではありませんが)
この「責任」を云々するときに、私が気になるポイントは、表現者の意図をどこまで汲み取るか?ということです。
上の記事の風刺画家のケースでも、表現者が主張する「意図」とは大きく違った方向に拡大して行き、事件はもはや風刺画家の手を離れたとも思えます。(問題化した後の表現者側の言動にも問題があったとも言えるかもしれませんが)
さらに、ある特定の条件下で、ある特定の人たちに向けた「表現」であったものが、後々になって、関係のない所から表現者の「意図」を超えた批判が寄せられるという事態も考えられると思います。(今回の事件がそうだと言ってるわけではありません)
特に、一般に「言葉狩り」と言われるような、言いがかりに近い批判を得意とする集団もあるでしょうし、つねに被害者意識に凝り固まった物の見方しかできない人たちもいるでしょう。
最近のように、ネットが世界に普及しつつある社会においては、その「表現」が伝播するスピードと範囲は格段に、早く広くなってもいますし、蓄積される情報量や保存される期間も、多く長くなっているとも言えるのではないでしょうか。
そんな中で、「表現の自由」と「表現者の責任」を考えて行くことは、非情に困難を伴うことではないかと思っています。