「エミリー・ローズ」を観てきました。

“悪魔の存在”が正式に認められた、衝撃の真実。 謎の死を遂げた19歳の少女。なぜ、神父が裁かれるのか。
ごく普通の19歳の大学生エミリー・ローズは、突然、 原因不明の激しい痙攣と恐ろしい幻覚に襲われた。 症状は回復する気配もなく、まるで呪われているかのような凄まじい痙攣と幻覚は、次第に悪化していった。エミリーは自分に何かが取り憑いているからだと確信し、 自らの運命を神父に託す。 しかし、神父による"悪魔祓い"は失敗に終わり、 エミリーは命を落としてしまう。彼女にすみついたのは、病か、悪魔か?
「エミリー・ローズ」オフィシャル・ブログより引用

主人公のエミリーは、米国の片田舎で生まれ育った敬虔なクリスチャン。
そのエミリーが奨学金を得て大学へ進学、親元を離れて学生生活を送る中で、突然異変が彼女の身体と精神を襲います。

深夜3時に起こる幻覚を伴った身体硬直。
彼女は最初、大学の病院で治療を受けますが、その後、症状の悪化に伴い親元へと帰り、教会の神父を頼ることに。

神父は、正式な悪魔祓いの許可を教会から受けた上で、悪魔祓いに臨みますが、失敗しエミリーは衰弱死?します。
司法は神父の業務上過失致死の責任を問い、ことの真相は法廷闘争の中で明らかにされて行くというストーリーです。

ネタバレになりますので、それ以上は書きませんが、映画の中で「彼女にすみついたのは、病か、悪魔か?」という答えは、直接描かれておりません。
あくまでも観終わった人ひとりひとりが、「自分で考えて答えを出してください」というスタンスです。
映画の公式サイトでは、「科学」と「信仰」という2つの視点が提示されており、その視点からいえば、裁判での検察側=「科学」、被告(弁護)側=「信仰」という図式になるかもしれません。
自分がどちらの価値観をより優先するかという問いであるともいえるでしょう。
それは、映画を観る中で、自分が検察側と被告側のどちらに感情移入するかということに、繋がって行くようにも思います。
ただ、裁判の中では米国の裁判ではおなじみの「陪審員」も重要なファクターであり、正直私は、この陪審員の立場に立ってこの映画を観ていたように思いますし、そういう人が割と多いんじゃないか?とも感じます。
私のすぐ後ろに座っていた「若いお兄ちゃん」の二人連れは、アベックが目立つ観客の中で私同様妙に浮いた存在でしたが、どうも会話から察すると医者の卵であるらしく、主人公の症状をあれこれ分析していました。
そういう意味では、彼らは検察側に近い立場で観ていたのか?それとも証人として登場する精神科の医師に近い立場であったのか?とも思います。
いずれにしても、ただ怖いだけのオカルト映画ではなく、「科学」や「信仰」について考えさせてくれる映画ではあると思います。
そして、「怖い」という部分では、神秘的なものをどのくらい受容するかにもよりますが、私的にはそこそこ怖かったですし、かなり「ビックリ」させられる映像表現や音響効果は多めにありました。
私がこの映画の中で考えさせられた部分は、主人公と神父の「信仰」心の強さであり、神父はまったくの善意でこの「犯行」を行ったという部分です。
この2人は、主人公に起こる現象を「悪魔憑き」であると確信しています。
その上で、神父はできうる限りの手を尽くしましたし、起こってしまった「彼女の死」という事実を受け入れ、その法律上の責任も引き受ける決意を持っています。
その行為は「科学」的立場からみれば、迷信を信じてしまったために起こった悲劇であるでしょうが、「信仰」的立場からみれば、聖人に列して賞賛されるほどの尊い行いである(映画の中でもそのような表現があります)と認識されるのかもしれません。
ただ、その強い信仰心に「科学」的な根拠が薄弱であったとしても、「悪魔憑き」とそれに対する「悪魔祓い」が、彼女の症状を改善させる可能性がゼロであるかということもあります。
結果として「悪魔祓い」は失敗していますし、法律的には神父はその責任を負うべきものと思います。
しかし、「科学」万能、「科学」優先とするあまり、「信仰」をすべてとする人々を無慈悲に切り捨てるというか、神秘的なものを排除するだけで良いのか?ということを思うのです。

ここでの「科学」という言葉は、自然科学に近い意味で私は使っていますが、カッコ付きで書いているのは、本来の科学的な態度によって導き出される本当に科学的なものと区別するためで、本来の科学とは違った物である可能性を留保するために「科学」としています。(同様に信仰にもカッコを付けてみました)

この映画を観終わった後、「彼女にすみついたのは、病か、悪魔か? 」という質問が私に向かって投げかけられたら、私は「病気であったと思います」と答えるでしょう。
しかし、同時に「絶対に悪魔の仕業よ」と答える人に対して、その人が間違っているとする確信は持てません。
それは「可能性は排除できない」ということで、「可能性は排除するべきではない」ということでもあると思います。
(ただ、そのことと神父が法律上有罪であるということは別ですが)

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