「男系維持派」で後継問題を考えてみた

写真は橿原神宮


日本人は、古くから森羅万象には魂が宿ると考え、日々の営みの中で、良いことであれ、悪いことであれ、あらゆるものに感謝と畏怖の念を持ちながら、美しい国土を守り、節度ある暮らしを心がけて来ました。
一方、西洋文明からは、遥か東の果て(極東)にある、不思議な民族と見られて来たように思います。
まず、唯物論的見地からは、「森羅万象には魂が宿る」などという考え方は、未開の野蛮人的発想に思えるでしょう。
そして、絶対善であるキリストを信奉するキリスト教信者からみれば、善悪の線引きが曖昧な、倫理観に乏しい民族であると映るかもしれません。
たしかに、日本人が築いてきた「日本文明」は、他の文明とは異質であるでしょう。
しかしながら、異質であることと、劣っていることとは明らかに違います。
私たち日本人は、ものをただ「物質」としてだけ捉えるのではなく、そこに「魂」を見つけることで、ものを大切にする気持ち、「もったいない」という精神を育んできました。
そして、善と悪という単純な2つの対立軸を脱することで、「大調和」という理想を実現してもきました。
非科学的だとか、曖昧だとかの批判はあるでしょうが、それが私たち日本人が築いてきた「日本文明」の伝統でしょう。
第二次世界大戦の敗戦により、日本は西洋文明によって占領されました。
それ以降、私たちは西洋文明陣営の一員として、西洋文明の影響を否応無く受け続けて来ています。
そして、「日本文明」は今、大きな変革を迫られていると思います。
私は、日本人が「日本文明は西洋文明より優れている」と主張すること自体、日本人らしくない態度であると思っています。
しかしながら、今現在の世界情勢を見たときに、はたして西洋人自身も、西洋文明が「絶対善」だと言い切れるのでしょうか。
私たちは、戦後教育の中で、日本人としての誇りとともに、日本人らしさをも喪失するように教育されてきました。
そして今、日本人から尊敬され日本文明の中心であり続けてきた、天皇制度についても、皇位継承が困難であるという理由から、これまでの男系男子による皇統が、女系容認へと、大きく変貌を遂げようとしています。
この改変は、男女平等という価値観には合致しています。
ただ、その議論においては、天皇を単に「政治的機関」とみなし、西洋的価値観に合致した方法で、その「機関」がいかにスムーズに継続的に運用されるか、という観点でしか見られていないように思えるのです。
そして、日本の長い歴史の中で形作られ、守り続けて来られた、天皇家に対する畏敬の念は、そこにはまったく表れていないと言ってよいのではないでしょうか。
戦後制定された、日本国憲法では、天皇は「象徴」となり、国事行為を行うものとされました。
しかし、同時に神武天皇から連なる皇統として、三種の神器を代々受け継ぎ、祭祀を執り行なう尊い存在であり続けているのも事実です。
日本は、西洋文明から、良いところは吸収して、より調和の取れた理想的国家運営を目指すべきでしょう。
そして、同時に森羅万象に対する畏敬の念を忘れない、慎み深い日本人であり続けるべきだとも思います。
今拙速に、皇室典範の改正が行われようとしていますが、日本と日本人の成り立ちをもう一度見つめ直して、私たちが守るべき皇室のあり方を、慎重に議論するべきではないでしょうか。


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私的には、男系維持派に見られる、「Y遺伝子」うんぬんや、さまざまな「陰謀説」には、少し違和感があります。
そして、同時に、女系容認派に対して、女系容認と言うだけで、日本の歴史について認識の足りない愚か者であるとか、「フェミナチ」、「売国奴」と決め付ける態度は、健全な議論を阻む態度であるとも思います。
天皇制についての議論は、日本国民にとっては、その根幹に関わる極めて大切な問題であると思います。
その意味では、「男系維持派」と「女系容認派」の双方が、お互いの意見を真摯な態度で聞き、議論を深め、大調和を目指すのが、日本人らしい態度なのではないでしょうか。